Wherever I am

世界中どこにいても、自分らしく、わたしの目に映る世界の様子を、きまぐれに書き綴ります。

心に残ったこと

前回更新から数カ月経過していますが
水祭りの3連休中に感じた事を。自分にとっては重要な気づきでした。


こちらに赴任してから、サービスアパートメントに入っています。
つまり、サービスがついてくるので、洗濯は自分でしているものの、部屋の掃除、キッチンの洗い物までハウスクリーナーさんがしてくれています。

これは嬉しいっ!と、舞い上がったわたし。

恥ずかしい話ですが、ここ数カ月、掃除、洗い物、すべて人任せ、自分でやったことはほとんどなく、水祭りでアパートのスタッフさんが不在の間久しぶりに「家事」というものを自分でやりました。

久しぶりに汚れた食器に手をかけ、水に手を付け、スポンジに洗剤をつけ、洗い物をするうちに、これを自分でしなくなったことで、何となく自分が失っていたものに気がついた気がしました。

そして、自分でも無意識のうちに、「どうせ自分が洗うわけではない」という思いが、食器の使い方に表れていることに気が付きました。

自分で汚したものは自分できれいにする。人に頼らずとも、自分で完結すべきことは完結させる。人として生きていく上で当然のことと思います。

それをしなくなっていたこの5カ月で、わたしは何かを失ってしまっていた気がします。
大切な気づきでした。


わたしの身近な、とても良くしてもらっている人が、1年前まで卵巣ガンに侵されていて、今も再発に怯えながら生活していること、再発を防ぐため卵巣を全摘出するか、出産の可能性を残すために温存するか、とても厳しい選択を迫られていることを知ることになりました。

日々、とても明るく、どんな人ともわけ隔てなく接することのできる、素敵な人です。

女性だからわかる、とても胸が苦しくなる選択。
わたしに、若いうちからの婦人科検診がいかに大切かをとうとうと説明し、一時帰国時の検診受診を厳しいくらいに強く勧めてきた
その理由がわかりました。

その事実を知らされた時、わたしは何も言えなかった。
ただ、相手の目を見ることしかできませんでした。

ここ数カ月、こちらでの生活にも慣れ、何となく日々の生活に忙殺され、長期的な未来を十分に描く余裕がなく
悶々と、歯切れの悪い日々を過ごしていました。自分でも自分の状況は良く分かっていた。
でも、どうするにも対処ができていなかった。

そのような状況の中、わたしにとってはとても衝撃が走る出来事でした。

他人の状況と比して自分の生を確認する、というつもりはない。
でも、大げさではなく、わたしには、わたしの与えられた命があることを、改めて強く感じた。

日々を、もっともっと鮮明に、強く生きていかなくてはいけないと思いました。